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日経新聞の歴史

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 明治初期に数多くの新聞が発行されたが、経済の専門誌として生まれ、今日まで発展したのは『中外物価新報』(日経)だけである。『中外』は産業振興を目指す明治政府の内務省勧商局と渋沢栄一など財界の援助で、内外の商況報道と商業上の知識普及を志して、三井物産の初代社長益田孝が創刊した新聞である。1876(明治9)年、西南戦争の前の年であった。
 印刷と販売は『東京日日新聞』社長の福地源一郎(桜痴)が引き受けてくれた。当初、週刊で日曜日に配達された。紙面はタブロイドよりやや大きく、4ページ建て5段組で、購読料は1部5銭、1年前払いで2円40銭であった。2年後からは週2回の発行、週3回にしたのは1882年で、この年に経営を三井物産より分離し、匿名組合「商況社」とした。出資者は渋沢栄一、安田善次郎(安田銀行頭取)、原六郎(横浜正金銀行頭取)などである。日刊になったのは創業から9年目の1885年であった。
 明治政府は富国強兵、殖産興業をスローガンに日本経済の近代化を進め、鉄道、港湾の建設、製糸、石炭、セメント、造船、兵器などの産業を次々興した。国内の商品の取引を活発にさせるとともに貿易を盛んに行った。
 1872(明治5)年に銀行条例で全国に銀行をつくり、(明治11)年には株式取引所を設立するなど、産業界はもとより金融界などあらゆる分野で経済ニュースが必要とされる時代で、『中外』は近代資本主義の申し子のように生まれ、成長した。
 当時、政治論議中心の政論新聞が政府の言論弾圧でつぶされているのを見て『中外』はつとめて政治には距離を置き、商業報道に徹した。「社説」欄を設けたのもずっと後になってからであった。この「中立性」によって、1882年には公定歩合の変更公告はじめ日本銀行の重要ニュースは『中外』に掲載する旨、特約を結ぶことができた。また、企業の決算など商業登記公告や、破産など裁判所の公告もほぼ独占的に掲載するようになった。
 創刊13年目に題字を『中外商業新報』に変え、「商況社」も1909年に合資会社「中外商業新報社」となり、1911年にはわが国新聞界初の株式会社(全額三井物産の出資)となった。『中外』が三井の手を離れ社員株主の会社になったのは1940年のことである。大手新聞社の中で社員株主の新聞社は日経だけである。
 『中外』は第二次大戦中の1942年に「新聞事業令」で他の経済紙を合併し一時『日本産業新聞』となったが、戦後1946年に『日本経済新聞』に改題した。翌1947年には「中世公平」の社是も制定された。いずれも小汀利得(おばまとしえ)社長のときであった。
 日経の販売部数は戦後の経済復旧と高度成長の波に乗り急速に伸び、1947年の35万部から40年後には300万部を超え、発行部数では世界一の経済紙となった。アメリカの『ウォール・ストリート・ジャーナル』、イギリスの『フィナンシャル・タイムズ』とともに世界の三大経済紙といわれている。
 現在、日経は国際化、総合化を進めているが、雑誌など出版からTV、ラジオ、電子情報まで総合的なマスメディア産業を目指している。

                               (町田顯著 初心者のための「日経新聞」の読み方より)